君の信用を食べたい

20代男性が自分の好きを忘れないために

人生に正解なんて無いのに

正解があると思ってきた

僕は昔から何事にも正解があると思ってきた。別の言い方をすれば、もっとより良い方法があるんじゃないか?と常に考えていた。

ある意味で完璧主義者なのかもしれないけど、僕の感覚からすれば、完璧なんて多分無いんだろうと思う。

どうして、こういう考え方をするようになったんだろうと思うと、それは、正解を求めて気持ちよくなれた経験があるからだ。

自分で言うのもなんだが、昔から勉強も運動もそれなりに出来る方だった。 でも、中学に入ったとき、最初あまり成績が良くなかった。何かがおかしいと思った。すごく悔しかった。自分の能力が否定されたような気がした。

そこで少しやり方を変えて、勉強に取り組んだ。そうするとすぐに成績も伸びた。中学では学年1位もとった。僕は、やり方を変えれば簡単に正解に近づけると学んだ。

他にもある。思春期になるとモテたいという気持ちが出てくる。当時の自分はモテなかった。でもモテたかった。だから、ネットでモテる人の特徴を夜な夜な調べたりした。今考えると最低だった。

そこには、落ち着いている男性、気が利く男性、話が上手い男性。色々書いてあった。 子供の癖に、それを実践すればモテるのではという淡い期待を抱いて実践してみた。結果モテた。モテたけど、もとの自分を失った。これが良くなかった。

本当にネットに書いてあることを実践したからモテたのか、たまたまモテ期が重なったのかは分からない。でも僕にとっては、ネットに書いてある正解らしいことを実践したら、成功した。

僕は勉強だけでなく、人の印象も操作できるような感覚に陥った。 それが、自分という核を、ごまかし続けていることとはつゆ知らず。ネットの皮をかぶった薄っぺらい人間になっていった気がする。

人生にも正解があるんじゃないかと思った

だんだんこの正解を求める思考は悪化し、染み付いてしまった。 僕は、人生にも正解といえるルートが在るのではないかと感じるようになった。〇〇を勉強して、〇〇ができて、〇〇みたいな人。そういう自分なりの正解を常に頭にもって、それに近づくことを人生のモチベーションにしていた。こういう人は今のネット社会には意外と多いのではないかと思う。

実際、当時書いたメモ帳には、自分のなりたい像を箇条書きし、更にイメージイラストまで書いてある。今考えると最低だった。今の自分を肯定せずに、もっとこうなれば、もっとこうすれば、もっとこれができればと。空想家だった。極度のマスターベーション依存症だったんだと思う。

なんでかって?

人は未来のことを考えているとき、他人のことを考えているとき、現実から、自分から目を背けることが出来る。楽を出来る。直視しないでいられる。 それは、束の間の休息であり、生きているのは紛れもなく今であり、自分である。目標を立てて満足しちゃう人間みたいなもんだ。

人生に正解は無いんだと感じるいま

まあそれからあれこれあって、今は、昔の自分を最低だと思えるくらいには感覚が変わった。

人の印象なんて、思った通りになるわけないと今は考えている。人は思ったより自分のことを観ていないし、そもそも興味がない。人は自分が思っても無い部分を見ていたり、あるいは見ていなかったりする。だからそれを制御しようとしても意味が無い。

なりたい自分の姿を持つのはいいが、それは正解のような定まったものではないし、他者目線で決めるものではない。

恋愛教科書に載っているモテる男性より、そこら辺のダメ男のほうがモテている。テレビに出てる成功者より、田舎のおじいちゃんのほうが幸せな笑顔をしている。

結局、人間が想像しうる人生の正解なんて、ネット検索や本、友達から聞いた情報から導かれる薄っぺらいものに過ぎない。それを正解と呼ぶなら、正解してしまうことが間違いであるという矛盾にいつか陥る。

人生は、ランダムで何が起きるか分からない。世界は、自分がコントロールできない他人が居るから面白い。

その時々でピンは立てつつも、意外と短期的な衝動にまかせて動いたほうが、多分人生は面白い。 他人を忘れて、単純に自分が楽しいこと、興奮すること、やりたいことをやる。

そういうことに22歳になって、やっと気づけて、本当に良かった。